幕の内弁当と余白の文化
posted at 16:13:18 on 2010-07-11 kaz | Category: オンモード
日本の製品は幕の内弁当のようだと評された方がおられました。
確かに、限られたスペースに美しくそして必要なもの、そして最先端で高機能なものを全て作り込むのは日本人の特質ならではと思います。
これが過去の日本の垂直統合された産業構造の中で花開きました。
これらを支えたのが、職人芸・芸術のようなアナログ技術です。
ところがこの10年で様相ががらりと変わり、世界で最も拡大している発展途上国の市場ではこの幕の内弁当のような製品は求められなくなりました。
幕の内弁当の美しさなんかどうでもよい、そこまで美味でなくてよいから安くカツが食べたい。だからカツ弁当を安く売ってくれという需要に対して、美味しいから少々高くても幕の内弁当を食べなさいというようなビジネスを日本はしていたのかもしれません。
今やそこそこの性能でそこそこの価格の製品が、ディジタルモジュールを買ってきては水平分散化された産業構造で素早く組み立てて販売するモデルが優位に立っています。
もちろん、そこにはそういう国々の消費者が求めているニーズを察知して素早く、そしてそれなりの価格の製品を提供することで市場のニーズを反映するという工夫が取られています。
中国の「山寨機」なんかは極端ですがその典型かもしれません。
ところがそれだけでは、iPhoneやiPadの成功は説明できません。
いくら市場のニーズを調査しても、今までにない形のビジネスモデルや製品が浮かび上がってはこないのですから。
先月私は、日経BP社 技術経営戦略考「3Dテレビ戦略に潜むワナ」の最後ににこのように書きました。
「潜在化したニーズと製品がうまく噛み合い,その製品に文化を醸成していくパワーがあれば。今までに見たことのない新製品が文化を創っていく。そういう社会に我々は今暮らしています。
このような視点から新製品や新ビジネス開発に携わっている私には,残念ながら,今の3Dテレビにはそのパワーが十分でないと思えて仕方がありません。前回のコラムにも書きましたが,目の前に存在して認識できている問題を,直線的,換言すれば左脳的・解析的に既知の方法で解いていっても,文化を醸成できる新しい製品は生まれません。
どのような問題が潜在的に存在しているかを直感的,右脳的に認識し,その問題を解決してくれる製品を生み出し,幅広い人々がそれを受け入れるという新製品開発のアプローチが今求められていると思います。言葉を換えて言えば,工学的なアプローチではなく,比較文化論的・社会学的アプローチがこれからの新製品開発には必要となると考えています」
新しい製品にはそれを裏付ける新しい文化が必要なのだと思います。
松岡正剛さんの著書「連塾 方法日本II 侘び・数寄・余白 アートにひそむ負の想像力」の中で面白い記述があります。
「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」
「白紙も模様のうちなれば、心にてふさぐべし」
岡倉天心の言葉だそうです。(p.226)
余白の文化、描ききらないで塗り残す「引き算の美学」という考え方です。
「日本の書にもこの考え方がある」と仙台の書道家 高山華流さんに言われたこと思い出しました。書道では「余白」に大きな意味があるそうです。
簡単に云うと、白黒のバランス。余白の部分には、沢山の大きな意味が含まれているとのことです。
面白いことに、逆に中国ではそうではない。何を書いたかが大きな意味を持つのだそうです。
iPhoneやiPadというのは、ひょっとしたらこの余白の文化ではないかと思ったのです。
ワンセグやお財布携帯がない、ある意味単純なiPhoneですが、余白のところにどんどんアプリを自分なりに足していくことができる。
そして自分なりの世界を構築することができる。
こういう思想、文化は、本来日本人が得意とするところではなかったでしょうか。
全てを入れ込まない。
しかし、そこには全てが入る可能性がある。
日本から、こういう文化を具現化した製品がどんどん生まれて欲しいものです。
アイキットソリューションズ
生島大嗣
確かに、限られたスペースに美しくそして必要なもの、そして最先端で高機能なものを全て作り込むのは日本人の特質ならではと思います。
これが過去の日本の垂直統合された産業構造の中で花開きました。
これらを支えたのが、職人芸・芸術のようなアナログ技術です。
ところがこの10年で様相ががらりと変わり、世界で最も拡大している発展途上国の市場ではこの幕の内弁当のような製品は求められなくなりました。
幕の内弁当の美しさなんかどうでもよい、そこまで美味でなくてよいから安くカツが食べたい。だからカツ弁当を安く売ってくれという需要に対して、美味しいから少々高くても幕の内弁当を食べなさいというようなビジネスを日本はしていたのかもしれません。
今やそこそこの性能でそこそこの価格の製品が、ディジタルモジュールを買ってきては水平分散化された産業構造で素早く組み立てて販売するモデルが優位に立っています。
もちろん、そこにはそういう国々の消費者が求めているニーズを察知して素早く、そしてそれなりの価格の製品を提供することで市場のニーズを反映するという工夫が取られています。
中国の「山寨機」なんかは極端ですがその典型かもしれません。
ところがそれだけでは、iPhoneやiPadの成功は説明できません。
いくら市場のニーズを調査しても、今までにない形のビジネスモデルや製品が浮かび上がってはこないのですから。
先月私は、日経BP社 技術経営戦略考「3Dテレビ戦略に潜むワナ」の最後ににこのように書きました。
「潜在化したニーズと製品がうまく噛み合い,その製品に文化を醸成していくパワーがあれば。今までに見たことのない新製品が文化を創っていく。そういう社会に我々は今暮らしています。
このような視点から新製品や新ビジネス開発に携わっている私には,残念ながら,今の3Dテレビにはそのパワーが十分でないと思えて仕方がありません。前回のコラムにも書きましたが,目の前に存在して認識できている問題を,直線的,換言すれば左脳的・解析的に既知の方法で解いていっても,文化を醸成できる新しい製品は生まれません。
どのような問題が潜在的に存在しているかを直感的,右脳的に認識し,その問題を解決してくれる製品を生み出し,幅広い人々がそれを受け入れるという新製品開発のアプローチが今求められていると思います。言葉を換えて言えば,工学的なアプローチではなく,比較文化論的・社会学的アプローチがこれからの新製品開発には必要となると考えています」
新しい製品にはそれを裏付ける新しい文化が必要なのだと思います。
松岡正剛さんの著書「連塾 方法日本II 侘び・数寄・余白 アートにひそむ負の想像力」の中で面白い記述があります。
「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」
「白紙も模様のうちなれば、心にてふさぐべし」
岡倉天心の言葉だそうです。(p.226)
余白の文化、描ききらないで塗り残す「引き算の美学」という考え方です。
「日本の書にもこの考え方がある」と仙台の書道家 高山華流さんに言われたこと思い出しました。書道では「余白」に大きな意味があるそうです。
簡単に云うと、白黒のバランス。余白の部分には、沢山の大きな意味が含まれているとのことです。
面白いことに、逆に中国ではそうではない。何を書いたかが大きな意味を持つのだそうです。
iPhoneやiPadというのは、ひょっとしたらこの余白の文化ではないかと思ったのです。
ワンセグやお財布携帯がない、ある意味単純なiPhoneですが、余白のところにどんどんアプリを自分なりに足していくことができる。
そして自分なりの世界を構築することができる。
こういう思想、文化は、本来日本人が得意とするところではなかったでしょうか。
全てを入れ込まない。
しかし、そこには全てが入る可能性がある。
日本から、こういう文化を具現化した製品がどんどん生まれて欲しいものです。
アイキットソリューションズ
生島大嗣
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しがない広告屋 wrote:
いつも拝見しています
広告会社で働いていますが、実は広告にも
そういう要素があるんです
デザイン上(視認性)だけのことではないのです
でも何でもかんでも注ぎ込みたがる客が多い
「余白」こそ大切なのに…
生島大嗣 wrote:
しがない広告屋さん
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
> 実は広告にもそういう要素があるんです
> デザイン上(視認性)だけのことではないのです
これには納得です。
実は、30年以上前に初めて渡米したとき、あちらの広告やTV CMの作り方に日本と決定的に違う何かを感じました。
当時はうまく言葉では言えなかったのですが、コレだったのですね!
今は日本の広告、TV CMも欧米的になってきてはいますが、まだまだ日本の余白文化が残っているのだと思います。
余白文化を大切にしたいと思います。